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高松地方裁判所丸亀支部 昭和51年(ワ)75号 判決

原告

石﨑正人

右法定代理人親権者父

石﨑洋一

同母

石﨑榮子

原告

石﨑洋一

原告

石﨑榮子

右原告三名訴訟代理人弁護士

城後慎也

右同

松本修二

被告

谷弘光

被告

飛梅董

右被告両名訴訟代理人弁護士

大西周四郎

右同

饗庭忠男

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、連帯して、原告石﨑正人に対して金三八五〇万円、原告石﨑洋一、同石﨑榮子に対して各金五五〇万円及びこれらに対する昭和四八年一二月二三日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告石﨑正人(以下「原告正人」という。)は、昭和四八年八月三日父原告石﨑洋一(以下「原告洋一」という。)、母原告石﨑榮子(以下「原告榮子」という。)の三男として出生した。

(二) 被告谷弘光(以下「被告谷」という。)は、肩書住所地において、産婦人科、小児科、未熟児センター谷病院(以下「谷病院」という。)の院長として同病院を経営管理し、かつ診療に従事している医師であり、被告飛梅董(以下「被告飛梅」という。)は、八月(昭和四八年、以下同じ)ないし一二月当時被告谷に雇用され、谷病院の非常勤医師として、毎週水曜日、小児科を担当していた。

2  診療契約

(一) 原告榮子は、八月三日午前一一時三三分、谷病院で原告正人を出産した。原告正人は、出生予定日が一〇月二六日であつたが、それより約八五日早く生まれ、体重一〇五〇グラムの未熟児であつた。

(二) 原告洋一、同榮子は、原告正人の法定代理人として、八月三日被告谷との間で、原告正人の看護、保育及び診断治療等を行うことを内容とする診療契約を締結した。〈以下事実省略〉

第三  証拠〈省略〉

理由

第一当事者及び診療契約の成立

請求原因1、2項の各事実は当事者間に争いがない。

第二原告正人の失明に至るまでの経過と病態

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

一原告榮子は、一〇月二六日が出産予定日であつたところ、七月二八日午前五時ころ、自宅において破水し、谷病院に入院したが、羊水流血が止まらず、八月三日午前一一時三三分、原告正人を出産した。

二原告正人は胎令二八週、生下時体重一〇五〇グラムで出生、その直後のアプガール指数八点、仮死はなくチアノーゼが断続しており、運動は不安で少なく、呼吸は落着いてはいるものの毎分五四回を数えやや不規則で、軽度の下肢浮腫が認められた。その後、八月末頃まで無呼吸停止あるいは不規則呼吸が頻発し、それに伴いチアノーゼ及び浮腫の発現、消失が繰返され、低体温が断続し、二四時間、目の離せない全身状態が続いた。

また、原告正人の体重は前記一〇五〇グラムから次第に減少し八月二二日(生後二〇日)に最低の八三〇グラムに落ち、その後増加に転じ、九月一二日に一〇〇〇グラム、同月一七日(生後四六日目)に生下時体重と同じ一〇五〇グラムまで回復し、一〇月三一日に一六五〇グラム、一一月二〇日に二二二〇グラムに増加し、一二月一三日に二七〇〇グラムになつて退院した。

三被告谷は、原告正人出生と同時に、被告飛梅は八月八日からその診断、治療にあたり、原告正人を、出生後、予め三二度位に保温していた保育器に収容し、八月三日午前一一時四五分から同月七日まで毎分三リットル(日量四三二〇リットル)、同月八日から毎分二リットル(日量二八八〇リットル)、同月一三日午後四時四五分から毎分一リットル(日量一四四〇リットル)の酸素を連続投与し、同月二二日午後四時四〇分一旦、その投与を中止した。この間、原告正人が呼吸停止に陥つたりしたため、人工蘇生器(濃度一〇〇パーセントの酸素をパイプ連結の顔面マスクを使つて投与する器械)を使用して一五日午後零時三〇分と一六日午後三時、午後七時四〇分、蘇生術を施した。そして、また、右酸素の連続投与中止後も前記認定のとおり、断続的な呼吸停止やチアノーゼの発現があつたため、八月二三日午後一時から午後一時三〇分まで、及び午後一時四五分から午後一二時まで毎分一リットル、同月二四日午前八時三〇分から午前一一時三〇分まで毎分一リットル、同月二六日毎分二リットル(時間不明)、同月二七日午後四時三〇分から翌二八日午前九時まで毎分一リットルの酸素を連続的に投与し、更に、同月二三日に二回、同月二四日、同月二六日、二七日、同月二九日に各一回人工蘇生器により酸素投与を行つた。

なお、看護日誌(甲第二三号証)には、八月八日の毎分三リットルから毎分二リットルへの減量につき記載がなく、診療録(乙第二号証)によれば八月八日から同月一三日午後四時四五分までの一日の酸素投与量は毎分三リットルで計算記載していることが認められるけれども、前掲診療録中の医師指示書八月八日欄に酸素投与量を毎分二リットルにする旨指示したことが記載され、また、看護婦の申送簿(乙第一七〇号証の二)の同日欄には酸素を二リットルにした旨の記載がなされていることが認められ、更に被告谷は、八月八日被告飛梅から保育器内温度を三六度に上げ同時に酸素投与量を毎分二リットルに下げるよう指示され、そのように実行した旨具体的に供述しており(同被告第一回本人尋問)、これらの事実に照らすと、前記各記載はたやすく採用しえず前記認定を左右するに足りない。

四原告正人が収容された保育器は、アトムV五五型で、器体に酸素投与口を含めて五つの穴があり、連続して投与される酸素を適当に放出するように工夫されており、器内に児を入れずに毎分三リットルの酸素投与を行ない、その酸素濃度を実験的に測定すると、一〇分後に二六・四パーセント、二〇分後に二八・九五パーセント、三〇分後に三〇・二パーセント、六〇分後に三一・一パーセントから三二・九パーセントであるが、器内に児が収容されると、酸素濃度は右測定値より低いものとなる。

五原告正人は、一二月一三日に退院し、同日及び翌一四日に浜田眼科医院浜田正和医師の診察を受けた時、同医師の紹介で、同月二一日天理よろず相談所病院永田誠医師の診察を受けたところ、本症に罹患(瘢痕期病変)しており、網膜全剥離で視力の回復は不可能と診断され、続いて同月二二日には、国立善通寺病院井上慎三医師の診察を受けたが、やはり同様の診断であつた。

六ところで、原告正人の本症の病態について、松尾信彦医師は、その生下時体重、呼吸窮迫症候群等の一般全身状態、網膜全剥離等の所見からかなり高い確率でいわゆるⅡ型と推定されるが、断定はできないとし、井上慎三医師も、原告正人の所見は従前自ら診察した本症Ⅱ型と推定される患児の病態、つまり虹彩癒着、前房消失後癒着、網膜全剥離、と近似しているが、眼底の病変経過、症状の観察をしていないので、Ⅰ型かⅡ型か断定しがたい、というのであり、また、後記厚生省昭和四九年度報告によれば、本症の瘢痕病変は検眼鏡的にも病理学的にも特殊性を欠いており、活動期よりの経過をみていない場合には確定的診断を下すことははなはだ困難とされていることに照らすと、原告正人の病態は本症Ⅱ型であつたことを疑うに十分であるけれども未だこれを確定するに足りない。

第三本症についての現在の知見

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

一本症の病態と臨床経過

本症は、発達途上の網膜血管に原発する血管増殖性病変であり、大部分が低出生体重児、ことに出生体重一五〇〇グラム以下の極小低出生体重児に発症しやすく、また重症化も出現しやすい。本症に罹患すると、一部は、網膜剥離を起こし、弱視、更には失明に至るが、大部分は自然治癒する。

本症の臨床経過及び病像は多様であり、その臨床経過分類の困難なことは多くの研究者の指摘するところであるが、従前わが国においては、これを活動期(Ⅰ型・血管期、Ⅱ期・網膜期、Ⅲ期・初期増殖期、Ⅳ期・中等度増殖期、Ⅴ期・高度増殖期)、回復期、瘢痕期に分けるオーエンスの分類が広く採用されていたが、研究が進むに従い右の分類に該当しない急激に網膜剥離に至るタイプの存在することが明らかになり、また、光凝固等の治療法が発表されその適応、施術時期についての見解が一致していなかつたため、本症に関する診断及び治療基準を明確にする必要が生じ、昭和四九年厚生省特別研究費補助金研究班が組織され、昭和五〇年三月同研究班から「未熟児網膜症の診断及び治療基準に関する研究」(以下、「厚生省昭和四九年度報告」という。)が発表され、続いて、昭和五八年九月、同昭和五七年度研究班による「未熟児網膜症の分類(厚生省未熟児網膜症診断基準、昭和四九年度報告)の再検討について」(以下、「厚生省昭和五七年度報告」という。)が発表された。〈以下省略〉

二本症の発症原因

本症は満期産の成熟児や、酸素療法を受けなかつた未熟児にも発症し、また逆に高酸素血症の持続した未熟児に発症しなかつた症例もあり、酸素投与との関連を疑問視する研究者もある。しかしながら、本症の大部分が酸素療法を受けた低出生体重児に発症していることから、一般に、網膜血管自体の高度の未熟性を基盤とし、酸素投与によるPaO2値の上昇が一つの要因であるとされている。

そして、その発生機序についても未解明の点が少なくないが、おおよそ、次のように考えられている。

胎児の眼の網膜血管は、胎生四か月ころから形成が始まり、鼻側では胎生八か月、耳側では胎生九か月でほゞ完成するもので、在胎三〇週程度ではまだ未発達で、一部無血管帯が存在する。この未発達の血管は、酸素(PaO2)に対して極めて敏感で、PaO2値が上昇すると収縮し、ついにはその先端部が閉塞する。そうすると、閉塞部周辺領域では、未発達の血管が異常に増殖し血管新生を始める。血管が新生するに際し、血管形成組織が眼球の硝子体内に入つて繊維化するに伴い、網膜を牽引し、これによつて、網膜剥離を起こす。また、新生血管は透過性が強く、血しよう成分が硝子体内に滲出しやすく、滲出した血しよう成分が硝子体内で器質化すると網膜を牽引し、前同様、網膜剥離が起こる。前記本症Ⅰ型は血管による牽引性剥離が主であり、本症Ⅱ型は、血しよう成分の滲出性剥離が主である。

三本症の予防法

未熟児は肺機能の未熟性などのため、無呼吸発作や呼吸障害を起こして酸素欠乏に陥り死亡ないし脳障害を起すおそれがあるため、医師は、そのような児に対して酸素投与をしなければならない。しかし、酸素投与が本症発症の一要因をなしていることは否定できないため、過剰投与にならないように児のチアノーゼを基準とし、最低濃度に維持し、かつ、それが消失した場合には、徐々に中止すべきである、とされ、また、PaO2値の連続測定が可能である場合には(PaO2値は常に変動し、その変動幅が極めて大きいことが判明しており、一日数回の採血測定では無意味である。)、その値が六〇ないし八〇mmHgになるよう、しかも、一〇〇mmHgを越えないように投与量を抑制すべきである、とされている。もつとも右の基準を保持すれば本症の発症を防ぎうるという保証はなく、PaO2値の安全値はない、とも言われている。

四本症の治療法について

本症の治療については、今なお未解決の問題が多く、決定的な治療法として確立されたものはないが、昭和四二年、永田誠医師が光凝固法を本症の治療に用いることを着想・試行して脚光をあび、以後多くの研究者が追試を行い、おくれて登場した冷凍凝固法と共にこれらを適期に施行すれば進行性の本症活動期病変が治癒しうるとされている。

ところで、光凝固法は、ドイツのツアィス社によつて開発されキセノンまたはレーザーを光源として高エネルギーの光束を集光して、主としてその熱作用によつて網膜組織の蛋白凝固を行うもので網膜血管病の治療として用いられていた方法であるが、これを本症の治療に適用した一般的な治療基準は、前記厚生省昭和四九年度報告によると、次のとおりである。〈以下省略〉

五光凝固法についての評価

前記のとおり永田誠医師が光凝固法を本症の治療法として用い、その成果を公表して以来、各地の先進的研究者、治療機関が注目し、実施を試み昭和四九年ころまでに、その有効性を肯定する研究報告がなされた。

しかし昭和五一年ころから、光凝固法の有効性を疑問視する多くの見解が発表されるに至つた。〈中略〉

以上のとおり、光凝固法の本症に対する有効性に関しては現在、これを疑問視する多くのしかも有力な議論の存することは否定できず、軽々に論定することは困難であるが、少なくとも、未熟児が本症Ⅱ型あるいは中間型に罹患していると診断した場合には、放置しておけば失明に至ることが高度の蓋然性をもつて予測でき、しかも、光凝固または冷凍凝固以外に他に有効とされる治療法がない現状にかんがみ、結果的に奏効するか否かはともかく、緊急避難的にこれを実施している、といつて差し支えないように思われる。

第四被告らの責任

一医師の一般的注意義務

医師は、一般に、人の生命及び健康を管理すべき医療行為に従事する者として、その業務の性質に照らし、診療行為当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準に基づき、最善を尽すべき注意義務を負つているものと解するのが相当である。そして、医師の過失判断の基準となる右のような医療水準は当該医師の専門分野、その置かれている地理的、社会的環境等の諸条件を考慮しつつ具体的に検討されなければならない。

二原告正人出生(昭和四八年八月)

当時の本症に関する一般的医療水準

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

1  酸素投与について

昭和三九年頃までは、極小未熟児には常例的に酸素を投与するのが一般であり、保育器内の酸素濃度が四〇パーセント以下であれば本症は発症しないと信じられていた(なお、昭和四三年、日本小児科学会新生児委員会が公表した未熟児管理に関する勧告中でも酸素投与については、たんに、「医師の指示によつて行う。保育器内の酸素濃度は定期的に測定、記録されなければならない。」とだけ述べ、具体的な投与基準は示されていない)。ところが、昭和四〇年頃になり、植村恭夫医師らによつて酸素投与を全く受けていない場合や酸素濃度を四〇パーセント以下に押えた場合でも本症を発症した症例が報告され、酸素制限があらためて未熟児管理上の重要な問題となり、酸素濃度は四〇パーセント以下にすべきことを原則としつつ、呼吸障害やチアノーゼが消失すれば酸素濃度を下げ、できるだけ高濃度、長期間の酸素投与を行わないようにすべきであるとされた。そして、その後の研究により、本症の発症につき、酸素の環境濃度よりもむしろPaO2値との関連性が指摘され、これがどの程度に抑制されれば本症の発症を防止しうるか、その安全領域は明確ではないものの一応、これを六〇ないし八〇mmHgに保ち、一〇〇mmHgを越えないように制限するのが望ましいとされた。しかし、当時未熟児についてPaO2値を継続的に測定することは極めて困難であり、わが国では昭和四九年六月、国立岡山病院小児科山内逸郎医師が未熟児に対する侵襲が少ない経皮的血液酸素分圧測定法により、その連続的測定を行つたのが最初である。そして昭和五〇年当時でもPaO2の連続測定が可能な設備を備えていたのは右岡山病院のほか、日本大学及び名古屋市立大学の各医学部附属病院の三箇所にすぎず未だ一般には普及していなかつた。

2  眼底検査について

昭和四〇年頃から植村恭夫医師らにより、本症の予防的側面から酸素療法のガイドラインとして検眼鏡的検査でモニターする方法が提唱されていたが、昭和四六、七年頃からは眼底検査が酸素療法の安全なガイドラインとならないことが明らかにされた。しかし、前記のとおり、本症の治療法として光凝固法が発表されるに及び、その適応、適期を判定するために、定期的な眼底検査の必要性が強調されるようになつた。しかし、未熟児に対する眼底検査は技術的に多くの困難が伴い、一般に普及徹底するまでには至つていなかつた。

3  光凝固法について

永田誠医師らは昭和四三年四月、オーエンスの分類によるⅡ期からⅢ期に進行する活動期の本症につき光凝固を行つたところ、病勢が頓挫的に終熄し、その後増殖性網膜炎の進行は見られなくなつた旨報告し、続いて昭和四五年五月、光凝固施術の四症例の追加報告を行い、その治験から、本症の活動期病変はオーエンスⅢ期に入つてなお進行を止めないような重症例でも適切な時期に光凝固を行うことによつて治癒せしめうることが明らかになつたとし、この治療法を全国的な規模で実施するにはかなり困難な条件が存在するが、これをいかに解決するかが今後の問題であると述べ、更に、昭和四七年三月には、本症の発生の実態はほゞ明らかにされ、これに対する治療法としての光凝固法はその後の多くの追試によつてほゞ完全な治療法として確認されたということができるとし、今後はこの知識を普及し、全国的な規模で実行できるように努力すべきであると述べた。

植村恭夫医師も昭和四五年一二月及び昭和四六年三月相次いで論文を発表し、光凝固法の登場により、有効な治療法が与えられた、最近各地でこれによる治験例が出されており、本症は早期に発見すれば、失明または弱視にならずにすむことがほゞ確実になつたとし、そのためには小児科、産科と眼科が共同して早期発見のための診療態勢を確立することが必要であると述べた。

そして、これらの提案がなされた後、関西医科大学眼科教室(上原雅美)、名鉄病院(田辺吉彦)、国立大村病院(本多敏昭)、九州大学医学部附属病院(大島健司)など、各地の先進的医療機関において追試が行われ、昭和四六年以降その結果が次々と発表された。

しかし、その適応症例の選定と適応時期、施術部位等については、各医療機関研究者間でも意見の相違があり、診断基準は確立されておらず、いわば試行錯誤の段階であつた。

三被告らの近隣における医療状況

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

1  徳島大学医学部附属病院は四国地方で最も早く昭和四二年から光凝固装置を設置し、成人の眼底疾患の治療に使用していたが、昭和四五年布村元医師がはじめて本症の治療方法としてこれを用いた。当時、同病院では未熟児の定期的な眼底検査は行われておらず、布村医師も本症についての臨床経験はなく、文献等によりいわば独習のかたちで施術したものであつた。同医師は昭和四九年秋及び昭和五〇年六月に一般眼科医等をも対象とした高知県眼科学会、四国眼科学会において、地方ではじめて本症の診断と治療について講演した。

2  岡山大学医学部附属病院においても昭和四一年一月光凝固装置が導入され、成人の眼底疾患の治療に使用されていた。昭和四二年一〇月頃右病院小児科に未熟児センターが設置されたが昭和四九年までは未熟児に対する定期的な眼底検査は実施されていなかつた。同病院松尾信彦医師は昭和四九年一〇月本症につきはじめて光凝固による治療を試み、昭和五〇年四月及び昭和五一年二月、岡山市内及び岡山県下の主として眼科開業医を対象に本症の診断、治療等について講演した。

3  香川県下では昭和四七年一月、国立善通寺病院井上慎三医師によつて未熟児を対象に眼科検査が行われはじめたが定期的なものではなかつた。そして、同病院では昭和四九年一〇月頃、光凝固装置が導入され、同医師がこれを使用して、本症の治療をした。

高松日赤病院では昭和四二年頃から産科担当医の依頼により院内の未熟児について単発的に眼底検査を実施していたが、定期的な検査は行われておらず、香川県立中央病院、栗林病院、香川労災病院等において、未熟児に対する定期的な眼底検査が実施されはじめたのはいずれも昭和四九年以降であり、右中央病院に光凝固装置が備え付けられたのは昭和五三年になつてからである。

そうして、昭和四九年以前においては県内の産科、小児科、眼科の一般開業医間では本症に対する関心は薄く、前記国立善通寺病院や徳島大学などとの連携態勢も全く整備されていなかつた。

四被告らの経歴などについて

〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

1  被告谷は昭和二四年三月、岡山医科大学を卒業し、岡山大学医学部病理学教室に勤務、昭和二五年一一月医師国家試験に合格し、同医学部産婦人科教室、社会保険栗林病院産婦人科医長を経て、昭和三二年五月から、肩書住所地において産婦人科診療所谷医院を開設した。右医院は昭和三九年未熟児室を設けるなどして施設を拡大して谷病院となり、昭和四二年には未熟児養育医療指定機関の指定を受け、昭和四六年には小児科を併設した。そして昭和四八年当時、入院ベッド数四三、常勤医師一名、非常勤医師二名、助産婦一名、看護婦(准看護婦を含む)一四名、保育器アトムV五二型二台、V五五型一台、ポータブル型一台、監視モニター一台、吸引装置一台等の医療器機を備えていた。

2  被告飛梅は昭和三六年三月、徳島大学医学部を卒業し、昭和三七年四月医師国家試験に合格、立花病院を経て昭和四一年七月から同四六年一月まで坂出市立病院小児科医長を勤め、その間、昭和四二年三月岡山大学院医学研究科を卒業、続いて昭和四六年一月から昭和四八年二月まで谷病院に小児科医長として勤務し、同年四月以降は同病院の非常勤となり毎週水曜日午後小児科を担当、その後高松市内において小児科医院を開業し現在に至つている。

そして同被告は、坂出市立病院勤務当時、未熟児の養育、治療を担当していたが、担当児のうち、昭和四二年頃と昭和四五年頃各一名の未熟児が本症に罹患し、失明した症例を経験し、ことに後者については患児の保護者から抗議を受けたりしたため、本症に関する文献にあたつたりしたことがあつた。

五被告らの過失の有無について

右各認定の事実に基づき被告らに医療上の過失があるか否かについて判断する。

1  本症発症の予見可能性

前記認定によれば、原告正人出生当時(昭和四八年八月)、一般の産科、小児科の開業医等においても、本症は出生体重一五〇〇グラム以下の酸素療法を受けた極小未熟児に発症しやすく、環境酸素濃度を四〇パーセント以下に制限してもなお発症することがあることは知りえたというべく、ことに、被告飛梅は、前記坂出市立病院勤務当時の昭和四二年頃と昭和四五年頃各一名の未熟児が本症に罹患し、失明した症例を経験し本症に関する文献を散見したことが認められ、極小出生体重児であつた原告正人が本症に罹患することは予見可能であつたといわなければならない。

2  酸素投与上の過失について

被告らが原告正人に対し投与した酸素量及びその期間並びに投与時における同児の全身状態は前記第二の三、四項で認定したとおりである。そしてその酸素量は、原則として、当時、一般に安全値とされていた四〇パーセント以下にとどめており、断続的な呼吸停止、不規則呼吸が発現する度に蘇生器による一〇〇パーセントの酸素を投与したものであつて、原告正人の全身状態と対照すると、担当医師として裁量の範囲を超えた不適当な処置とは到底認められない。被告らに酸素投与上の過失を認めることはできない。

また、未熟児に対するPaO2値の継続的測定は極めて困難であり、昭和四八年当時、一般に行われていなかつたことは前記のとおりであるから、被告らが原告正人の酸素管理上これを測定しなかつたとしてもこの点に過失があるとは認め難い。

3  眼底検査、光凝固の施術及びそのための転医義務違反について

なるほど、〈証拠〉によれば、被告らは原告正人の入院期間中、同児に対し、眼底検査及び光凝固法などについて何らの処置もとらなかつたことが明らかである。

しかしながら、わが国では前認定のとおり、昭和四〇年頃から先駆的研究者によつて未熟児に対する眼底検査の必要性が指摘され、光凝固法施術が発表されてからは、本症に関心を寄せる一部の先進的医療機関において同法の適応、実施時期の判定のために未熟児の眼底検査が実施されるようになつたが、何分にもこの検査による本症の発見、病態の分類及び臨床経過の正確な診断については豊富な経験と熟達した能力を有する医師にしてはじめてなしうる困難な作業であるため、昭和四八年当時未だ一般的に定期的な眼底検査はもとより個別的な眼底検査さえ十分に行われるに至つておらず、香川県及びその周辺の地域医療の中心であつた国立善通寺病院や徳島大学、岡山大学等の各医療機関においてもまた、定期的な眼底検査の体制はとられていないのであつて、わずかに、自院内の小児科や産科の依頼によつてその都度これを実施していたに過ぎず、まして、県内の開業医間でこれが行われているような状況ではなく、要するに未熟児の眼底検査は一般臨床眼科医が有すべき診断法にまでなつていなかつたのである。更に、光凝固法は、昭和四八年当時、やはり一部の先進的専門的研究者によつて本症の治療法として積極的に評価され、理論的には完成されたとする見解さえも公表されたのであるが、その施術の実践における適応、適期等の判定については客観的に確立された診断基準がなく、当時は個々の医療機関が独自の判断に基づいてこれを行い、治癒困難な激症例の出現もあつて施術の適応、適期等の判定に混乱を生じていた時期であり、その解決のため一応の診断、治療基準が示されたのは昭和四九年度厚生省報告が最初であつて、同報告によつてさえ右基準が果たして妥当なものかどうかは今後の研究課題とされており、被告らの近隣地域においてもまた昭和四八年当時、わずかに徳島大学医学部で本症に対し光凝固法が実施されてはいたが、それも試行の段階を出ず、もとより同大学への転送態勢は全く整つていなかつたのである。加えて、前記のとおり、その後光凝固法に対し多くの警告や疑問が投げかけられ、現在においても光凝固法が本症の治療法として実験研究の途上にありなお有効性に疑問があつていまだ確立完成した治療法とまではいえないものであることを合わせ考えると、原告正人出生当時、光凝固法はいわゆる臨床医学の実践における一般的医療水準に達していたと認めることは困難である。

そうすると、被告らが原告正人に対し眼底検査及び光凝固法に関し、転医をも含め何らの措置もとらなかつたことに過失があつたということはできない。

なお、被告飛梅は原告正人出生以前、坂出市立病院勤務当時、本症による失明症例を経験していることは前認定のとおりであるが、本症に関する当時の一般的医療水準が前記のとおりであることに照らせば、右の事実によつて、同被告の過失の内容が左右されるものではない。

4  説明義務違反について

〈証拠〉によれば、被告らは原告榮子や同洋一に対し、本症について何らの説明をしておらず、原告正人の退院時になつて、近隣の眼科浜田正和医師を紹介し、眼科検診を受けるように勧めたにすぎないことが認められる。

なるほど、医師は医療行為の過程において、複数の治療方法がある場合とか、ある種の治療法を実施するか否かの選択の余地がある場合、更に、新らたな疾病の発生が予測される場合には患者や保護者に対しその主体的判断を促すため、診療に関する内容を説明指導する契約上の義務があると解されるが、その説明指導の内容、程度は原則として、当時における一般的医療水準における知見に基づくもので足りるというべきである。しかるところ、本件の場合、原告正人出生当時、未熟児に対する眼底検査及び光凝固法による本症の治療はいまだ一般的に確立された医療水準に達していなかつたことは先に認定したとおりであるから、原告らに対し本症に関する右診断、治療方法を説明し転医や治療の選択をする機会を与えるべき法的な義務はなく、被告らがこれにつき何らの説明や指導をしなかつたとしても、契約上の義務違反の責任を認めることはできず、この点においてもまた被告らに過失はないものというべきである。

第五結論

以上の次第で、被告らの原告正人に対する診療につき、不法行為上または診療契約上の過失は認められないから原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。よつて、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官田中観一郎 裁判官榎本 巧裁判長裁判官古市清は転任につき署名押印することができない。裁判官田中観一郎)

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